ちいさな私を抱く

更新が滞っているのは、ある本を読んでいるからなのですが、これがなかなか手ごわくて、時間がかかっています。

ということで、今日は別な話を書きます。これも、書かないと、忘れてしまいそうなので。
 

ちょっと前に、村上春樹の小説を読んで、表現アートセラピーの体験をしたときの話を書きました。胸の奥のほう、背骨の少し前あたりに塊のようなものを感じ、それが熱を持って広がり散ったというようなことを書いたと思います。
(→記事

それから数日して、こんどは同じ場所に、小さな、怯える女の子を発見したんですよね。比喩です。実際は何かに怯えている気持ちそのものがありました。

記憶の中に、台所の隅で泣いている自分があって、その像と重なりました。

小さいとき母に叱られて、泣いて、誰も助けてくれなくて、心細くて、そのときの気持ちはずっと抱えたままでした。そのときの私が、まるでお堂にしまわれていたお寺のご本尊のように現れてきたという感じでした。

私が何かを怖がるとき、何かに傷つくとき、この部分がいつもいっしょに怯えてきたような気もしました。

女の子が泣いている。一人ぼっちで泣いている。

これは間違いなく私の中の分身なのですが、この子を私自身が抱くことができるんじゃないか、と、思いました。よし、やってみよう、と思い切るのに少し勇気が要りました。

イメージの中でそっと手を伸ばし、その子に触れました。よし、よし。

不思議な感じでした。泣いている子どものイメージが薄くなっていきました。

そうしながら、あ、そうか、と、気づいたことがありました。

こうやって傷ついた自分を慰めることができるのなら、傷つくことはそんなに怖いことではないということです。

今まで、このやり方がわからなかったから、人といき違ったり、意図が伝わらず誤解されたりすることが怖かったのだと気づきました。ずいぶん自分の気持ちをごまかしてきたと思います。
もう、怖がることはないんだ、と、思ったら、楽になりました。


私が、小さな私を抱くことができたのは、息子を抱くことができたからだと思います。そしてそれができたのは、夫が私の気持ちをしっかり抱いていてくれたからだと思います。

この変化は少し前に起こり、書くタイミングを探していました。何かができるようになったときの変化は瞬く間に風化して記憶から消えてしまいます。どうにか書き留められて良かったと思います。