「無邪気な忘却」と名づけてみました

ひとつ前の記事の最後の方に書いたことですが、何かを学んで身につけたとき、できない状態からできる状態になったとき何を考えていたか、どんな感覚だったのか、といったことをうまく表現できなくなってしまうという現象があります。

自転車に乗れるようになったときや、泳げるようになったときのことを思い出してみて欲しいのですが、いかがでしょうか。掛け算や割り算はどうやってできるようになったでしょうか。

どうも、思い出せないものらしいです。

この現象のことを、私は放送大学の「教育心理学特論」の授業で知ったのですがこれはとても大切な視点ではないのだろうかと考え続けています。

人は、問題をうまく解くことができる域に達しているとき、「どうやって解いているのか教えてください」と頼まれても、そこに含まれる下位プロセスを丁寧に「外化」して、人に「説明」することはできなくなるどころか自分で何をやっているのか内省することすら難しくなるのが普通である。(放送大学大学院教材『教育心理学特論』(三宅芳雄)p.52)

熟達すればするほど、それが自分の一部になればなるほど、自分がやっていることを説明できなくなってしまうんですよね。このことを、私なりに名前を付けてみました。

「無邪気な忘却」です。

自転車に乗ることや泳ぐことなどは、自分の中のプロセスは表現できなくなってしまっていても、できるようになった時期や、どういう順序で練習したかなどの表面的な記憶は保たれています。でも、私たちはもっとさまざまな細かいことがらを、実は小さいときから学んでは身につけ、そしてそのことを忘れてしまっているのではないかと思うのです。

一つ前の記事に書いた、「自分を抱く」というやり方も、そんなスキルのひとつなのではないかと思います。人によってはとても小さいときにそれを身につけ、私は50歳になってはじめてなんだこうやったらいいのか、とわかる。
すでにできるようになっている人にとっては、あまりにも当たり前のことで言葉にはならないのだろうと思うのです。

他にも、成長の過程で自然と身についてきたスキルがたくさんあって、それらはいつの間にか自分のものになってしまっていたがゆえに、どこかである日学習したのだということをすっかり忘れてしまっているのだろうと思います。

学習したことであるのにもかかわらず、同じことができない人を見ると、まるで生まれつきに能力に欠陥があるかのように感じてしまうのは、自分がそれを学習したことを忘れ、どうやって学習したのかも忘れてしまっているからなのだろうと思うのです。

発達障害ということばが氾濫してしまう現象の裏には、「無邪気な忘却」に関わる事実の誤認が含まれているように思えて仕方ありません。今の社会システムに自然な学習を妨げる要素があるために、スキルを身につける機会を逃しているだけの人たちがたくさんいるような気がします。私たちの能力のほとんどは学習して得られるものであって、生まれつき完成した形で備わっていたり、最初からすっぽり欠如していたりするものではないはずだからです。