葛藤を処理するスキルはそのまま教養に通じる

ひとつ前の記事では、価値の遠近法について書きました。
絶対に必要なもの、あったら良いもの、端的に要らないもの、あってはならないもの、を区別できることが教養、というのが、鷲田清一さんの説であるということでした。

これは優先順位をつけるスキルに関係していると私には思えます。私が精神的にしんどい時期、優先順位をつけることはとても難しいと感じていました。優先順位をつけることは本当に難しい。精神障害を持つ人が教養を欠くように見えるのはこんな理由もあるのだろうなと思います。

会話の文脈の中で、今言うべきこと、言っても良いこと、言う必要のないこと、言ってはいけないこと、という区別もあると思いますが、これも同じく優先順位にかかわることです。

精神の障害があるとどうして優先順位がつけられないかというと、私なりには、これは、心の中で葛藤を処理することに障害が起こるからだろうと解釈しています。

あちらが立てばこちらが立たず、ということは、生きていれば往々にしてあるわけで、それを上手にさばいていけなければしんどいに決まっています。葛藤を処理する方略が破綻して病気になるとも言えます。

葛藤の処理の方略にはいくつかあって、これは私なりの考えですが少なくとも3通りあるんじゃないかと思います。
1.どちらかを捨て、片方を選ぶ。捨てるための決断力が必要。
2.どちらもある程度生きるように調節する。力の方向を見極め、ベクトルを作る力が必要。
3.どちらも活かす新たな方法を考える。アウフヘーベン止揚する力が必要。

昼ごはんにうどんか寿司か、といった選択では1で十分だし、車の運転で速さと安全さの両方を求めようとすれば2の方略で妥協する必要があります。賢い人は3の方略を上手に使っているんだろうと思います。

精神が参っているときは、まず、捨てることができなくなって、1の方略さえ使えなくなっていました。ひとは決断をするとき、脳の知的なちからだけではなくて、内臓感覚に由来する感情の力を利用していることを、以前学びました(→記事)が、精神の病では感情がうまく機能しないために決断ができないのだろうと思います。

どんな選択にも迷い、無駄に力がはいって、100か0かみたいな極端な選びかたをしてしまう。文脈に関係なく、今言わなければ思いがあふれてしまう不安にかられて、その場にふさわしくないことを言ってしまうことも多々ありました。

それは、周囲からみたら 教養のない ふるまい、いわゆる 分別のない ふるまいに見えたことだろうと思います。

価値の遠近法を使い、教養ある態度をとることができるためには、感情と知性を連携して葛藤を処理していくスキルが大前提としてある。それは、幼い頃からはぐくまれるスキルであり、また、精神の健康度に応じて伸びたり縮んだり変化するものだということ。

私のようにいちどそのスキルを大きく失った人間は、自分の回復していくプロセスを記述していくことで誰かの役に立つのではないかと考えています。