学習塾って結局何なんだろう

学習塾の講師を始めてそろそろ4年目にはいろうとしています。

アルバイトとはいえ、慣れてくれば専門性を問われます。個別指導なので心理カウンセラーの勉強で仕込んだスキルがかなり使えます。生徒さんとうまく気持ちがかみ合ってどんどん勉強がはかどってくると、私の方にも達成感が生まれます。全くやる気がなかったり、完全に落ちこぼれの状態だったりというところから始めて少しずつ成績が上がってくるのを見ると、対価をいただく価値のある仕事をなしているという自負心も生まれてきます。

でも、学習塾というのは、公式な学習機関ではありません。誤解を恐れずに言えば、ヤクザな場所です。もともとは近所のオジサンやお兄さんにちょっと勉強をみてもらってお礼をしていたのを、場所をつくって生徒と講師を引き合わせ、会社は上前を撥ねている、と取れなくもありません。

なのに、学習塾なしではやっていけない、というような状況が見えて、ほんとうにこんな世の中でいいのかな、と思うことがあります。

学校の授業で思いっきりつまづいている中学生が次々とやってきます。授業中はただ座っているだけで何も理解できていないであろうという状態です。個別に面倒をみて少しわかるようになってくると勉強に向かう態度も変わってくるし、課題にも真面目に取り組むようになってきます。変わってくる生徒たちを見ると、これを学校で本当にどうにもならなかったのだろうか、と考え込んでしまうのです。

私が中学生だったのは40年も前、高校に行かない同級生もいたし、進学したとしても高卒後は就職が当たり前、大学に行くのは一部でした。今はほとんどの子どもが高校に進学しますし、その半数以上が大学や専門学校にすすみます。勉強ができなくても他の道があるさ、と笑い飛ばせる世の中ではなくなっているわけです。なのに、授業の進め方がぜんぜん昔と変わっていないですよね。一斉に同じ授業を受けて同じ宿題を与えられ、同じテストを受ける方式です。

個別授業で補習をする必要がある生徒が出てくるのはちょっと考えればやる前からわかることでしょう。それに対して公的に手当てされず、私たちのような怪しい民間の講師がそれを担っているのはとてもまともな教育システムとは思えないのです。が、この部分を論評したものはあまり目にしたことはありません。

ボランティア講師を使って学習支援をしているのもよく見聞きします。これも大変おかしな話だと思います。

授業の進め方そのものを変えるという発想は全くないのでしょうか。

文科省が教育改革と銘打って新しいカリキュラムを発表するたびに、保護者はそれに対応した塾を探しています。私の周りを見回す限り、そういう風に動いているように見えます。一斉に授業が進められるという方式が変わらない限り、落ちこぼれていく子どもは出てくるし、それに対して保護者の中に強い不安があるのだろうと思います。結果として、新しいカリキュラムは、一斉授業する学校と、個別に面倒を見る民間の業者たちが補完しながらその世代への教育として達成されるということになりませんか。

一例として、小学校へ英語が導入されるとなれば、もうすでに英語塾に通う子どもが増えています。結果としてその世代の英語力が上がったとして、これは学校教育の純粋な結果と言えるかというとかなり疑わしいと思いませんか。

もし、保護者の中からそういう動きが出ることを想定内として指導要領が決められているとすれば、民間の塾や習い事というものを利用することを前提とした教育システムなんだろうと考えざるを得ません。定期テストで平均点を取っている生徒さんたちの理解度を見ても、学校の授業だけで教科書の内容が習得できているとはとても思えないことも多々あります。ほんとうにこれでいいんでしょうか。

踏み込んで言えば、個別指導や少人数指導ができる専門の教師を育成して学校内に配置する気は、学校や文科省には全くないのでしょうか。民間やボランテイアにこのまま委ね続けるつもりなんでしょうか。この辺りには私の知らない事情もいろいろあるのだろうけれど、今の状態を当たり前と思う感覚は疑ったほうがいいのではないでしょうか。

民間やボランテイアが教えている内容やその質については何の保証もついていません。過大な期待をかけられたり、責任を負わされたりするようなものではないはずのものが、日本の教育システムの一部をしっかり担わされているように感じてしまって、それはおかしいだろうと思うのです。